Ryuichi Sakamoto : CODA を観て、思うこと。

坂本龍一の2012年から5年間を追ったドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA 』。
公開後、多くの反響をいただいております。思いのこもった声の数々をこちらでご紹介いたします。

[ 感想 ]浅田 彰が語る「CODA」

終わりではない、これは新しい始まりだ



『Ryuichi Sakamoto : CODA』は公私ともに激動の中をくぐりぬけてきた音楽家の姿を描く貴重なドキュメンタリーである。

東日本大震災と原子力発電所事故、そして咽頭がんの告知と闘病。思わぬ事情で完成が遅れるなか、監督は忍耐強く対象に寄り添い、音楽家もまた驚くほど率直にすべてをさらけ出してみせる(たとえば、病後の新しい日課としてバッハと向かい合うところで、楽譜を見ながら手探りでピアノを弾く、そんな無防備な姿を撮影されても「あ、やられた!」と笑ってみせる音楽家は、めったにいないだろう。本当に自信のある音楽家でなければありえないことだ)。

そうした現在の姿に、イエロー・マジック・オーケストラの時代や、ベルトルッチ映画の時代など、過去の貴重な映像が差し挟まれ、ドキュメンタリーはアクチュアリティを失うことなく音楽家の全体像を描き出すことに成功している。とくに、映画『シェルタリング・スカイ』の引用は感動的だ。人生ははかない、たとえばこれから死ぬまでに満月を見るということが何度あるだろうか、と語る原作者ポール・ボウルズ。この言葉は坂本龍一が病後初めて発表したアルバム『async』に引用され、そのペシミズムに対してアルセニー・タルコフスキー(映画監督アンドレイの父)の永劫回帰の詩が応えることになるだろう。

音楽の旅人としての音楽家。病後もその旅は続けられ、その過程で、音楽家は、それまでより広い音の世界、楽音(サウンド)と騒音(ノイズ)の区別を超えた世界の響きそのものを発見するに至る――健康と病いの区別を超えたより大きな生を発見するのと同時に。

それを象徴するのが、東日本大震災で津波をかぶったピアノにまつわる一節だ。最初、調律がくるってしまったそのピアノは一種の死骸としてとらえられる。だが、そもそも正しい調律とは何か。それは、西洋合理主義に基づき、近代の科学技術が自然を無理に矯めようとする暴力の産物ではないのか。とすれば、津波をかぶって調律のくるったピアノとは、自然によって調律しなおされたピアノだととらえ直すこともできるだろう。坂本龍一は、こうして、かつては死骸のように見えたピアノから、ジョン・ケージのプリペアード・ピアノのような、いや、いっそう力強い響きを引き出してみせるのである。

こうしてみると、このすぐれたドキュメンタリーの欠陥は『CODA』(「終結部」を意味するイタリア語の音楽用語)というタイトルにあると言うべきだろう。ガンの治療を終えて仕事に復帰した音楽家のドキュメンタリーにつけるタイトルとしては無神経にすぎるだけではない。このドキュメンタリーが描き出すのは、「終わり」と見えたものを「新しい始まり」として再発見し、より広い地平に歩み出そうとする、あくまでも前向きな音楽家の姿ではないか。

そう、終わりではない、これは新しい始まりなのだ。必見!